2011年01月08日

そこは地の果て、ブライトン






何だってあり得るのだ、この世の中は。いいことじゃなくて、悪いことなら。





ブレイディみかこさんの、自ら曰く”フィクションとしてしか書けないノンフィクション”、
『愛着理論』の展開が連載1年を経ていよいよ大詰めにきている。
これ、現実に起きたことの記録という点でも、読み物としての完成度という点でも、
どうにか形にして残るようにすべきだと思う。
僕は本読みではないけれど、この文章は書籍として手元に置きたい。
とんでもないですよ、これは。





DV、階級、人種、偏見、貧困、アンダークラス。
頭の中では理解していた英国社会の様々の問題を、あれほど目に見える形で見たのは初めてだった。



いつまでも観光者気分で、ぼんやりしていたのだ。
この国では外国人だからといって、階級の枠の外で傍観していることは許されない。
“フォリナーだから”という理由で、まるでテレビのニュースでも見るような気分で社会を傍観しているといつか自分も足元をすくわれる。
だけどそんなことは誰も教えてくれなかった。
日本で読んだ本もイギリスに関するテレビ番組も、そんなことは教えてくれなかった。



「全然自分は悪くないのに苦しんでいる人は助けますが、怠け者や愚か者は助けません、というのじゃね、ケツの穴が小さ過ぎるでしょ、人間として。そういう理屈は、要するに誰も助けたくないことの言い訳なんだよ」



「人の痛みなんて、Who cares? あいつらが大騒ぎしたのは、あのファッキン障害者の親がPTAの役員やってる英国人で、私はチンキーの娘だからだよ」



「私の長女も、この病に冒されちゃったのかな。虐待されてるって嘘をついて、スターになろうとしたんでしょうね。可愛そうなハーフの娘が鬼みたいな東洋人の母親から虐められるっていう筋書きのヒロインになって、みんなに構われてちやほやされて、小さな世界でのセレブリティになりたかったんだと思う」



「I'm proud of you」
と母親に抱きしめられたことは一度もない。
「ガキは黙ってないと殺すぞ」
と泥酔した父親に脅かされるより、そのことのほうが何倍も悲しかった。



「あんたみたいな母親、私はいらないんだ。ファッキン・ジャップ」



礼子はずるずると床にへたり込み、天井を見上げてわあわあ泣いた。
自分のことなんて、最初からどうでもよかったのだ。
あの子たちがすべてだった。
そういう生き方は間違いだと言われても、私には子供がすべてだった。



ここには、「お金がない」「なんとかして」とすがってくる女もいなければ、裾のほつれたセーターを着た貧乏ったらしい子供たちもいない。
それは精神衛生上とても良かった。

親となるに相応しい人々に育てられて、自分の子供たちは幸福なのだ。
自分はもう娘たちには必要ない。
それはマックスにとって大きな解放感だった。

だから、なぜ幸福そうな娘たちのリポートを読むたびに激烈に飲みたい気分になるのか、マックスにはわからなかった。




明けない夜はない。
それは残酷な現実だ。
どんなに闇の中に隠れていたいと願っても、いろんなものが見える朝が必ずやってくる。







”誰と誰と誰がモデルなのか。なんてことはこうなってくるともうどうでもいい。
「ボヴァリー夫人は私だ」と言った人が昔いたように、この話はわたしの話であり、あなたの話だ。”

(――-ブレイディみかこ)
posted by Skedge at 00:00| Comment(0) | ボヤキ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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